注)記事の日付は太陰暦を用いております

2014年12月30日

丸められんのか?

霜月九日 晴れ

 白菜ひと玉結球させるのに、7年かかった。小さく、小さく、霜に外葉を枯らしながらその白菜は少しずつ膨らんでいる。

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 今の畑に移って自然農を始めて7年。今年ようやく、友人との共同企画として実験的な試みを試した区画での成果。もしこれまで同様の畑だったら、果たして結球させられていたかどうかはわからない。いやおそらく、できてはいないだろう。

 農のあり方として、技術として、知識として、白菜を結球させることは、今の時代難しいことではない。ではいったい、結球させるために7年掛けることに、果たして意味はあるのだろうか。

 有史以来、人は、自分の望みに適う「自然からの恵み」を、いったいどれくらいの速さでどれくらいの規模で生産してきたのだろう。今私たちが数百円(時期によっては百数十円)で手に入れることができる白菜を、いったいどれほどの年月をかけて育種し、積み重ね、改良し、その知恵を積み重ねてきたのだろうか。

 とはいえ、自然農は、別にそんなことを体感するために行う農法ではない。10年ほど前に小生が自然農に取り組み始めた頃と比べても、わかりやすいテキストになるべき書籍が何冊も発行され、自然農で作物を育てる「方法」が情報化され、技術化され、もしかしたらお手軽になっているのかもしれない。きっと上手な白菜の育て方も書籍の中を探せばのっているはずだし、きっと育つのかもしれない。

 実際にこれまで何度か白菜の種を蒔き、苗を植え、収穫することを夢見てきた。しかし、育たなかった。

 大きく、甘く、形良く、育てるのが目的なら、きっと他にもすべがある。だから、肥料を使ったり、機械を使ったり、農薬を使えば、丸い白菜という結果を手にすることはそれほど難しいことではない。だが、白菜を丸く結球させるのに7年かけてそれを楽しむすべは、自分が取り組んでいる自然農において他にない。

 
 自分の人生を何に費やすか。

 とりあえず今の自分は、これからさらに数年かけて、無肥料、無農薬、不耕起の自然農で白菜を上手に育てることを一つのテーマに生きてみる。それは決して生産的ではなく、活動的でもなく、ポジティブでもスピリチュアルでもなく、ただの、流れみたいなものなのだと思う。それで金を稼ぐとか、名を成すとか、国家を背負うとか、日本をよくするとか、そんなもん関係なしに。
 
 インターネットや雑誌やFBの中で声高に世界や日本や社会や人生を息巻いて話す人々の声を聞きながら、お前らは、肥料なし、トラクターなし、農薬なしで、白菜丸められんのか? と思っていた。「いや別に育てなくていーし」と言う声も聞こえてきた。 そして来年の俺、白菜丸められてる?

 2014年、最後の雨上がりの畑に出て、まだまだ決して丸まっていない、中途半端な白菜をながめながら。


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  明後日の新暦1月1日は、七十二候の「雪下出麦(ゆきわりてむぎのびる)」。 とりあえず、麦は生えたぞこんちくしょう。


第六十七候: 冬至末候
【 雪下出麦(ゆきわりてむぎのびる)】
=雪の下で麦が芽を出す=
 (新暦1月1日頃〜1月4日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※



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2014年12月08日

うまいんだもん

神無月十七日 晴れ

 野菜がうまいなあ。


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 今年初めて育てた金カブを、さっと炒める。えもいわれぬ甘さと香り。自然農だから旨いのか、この種のもつ旨みなのか。

 傷物のアピオスとその蔓(根の茎?)を、香ばしく炒める。口に広がる、アーモンドのような、栗のような、風味満点のアクセント。 そしてそのカブとアピオスを絡めて絶品チャーハンに♪ あーうめー。

 ようやく育ち始めてくれた人参。粗野で、猛々しい、これぞ人参といった、甘みとエグみが混ざった存在感。

 大豊作の里芋。小芋はから揚げして、熱々をビールで。親芋はねっとりと甘辛く炒めてこれもビールで。

 プリプリに太ってくれた生姜は、小生は玄米酢とキビ砂糖で甘酢漬けを仕込み、妻はスパイス4種をブレンドしてジンジャーシロップを仕込む。辛さが鮮烈に漂う、これぞ自然農の生姜
 
 生でも焼いても炒めても煮ても揚げても旨い、さらには血糖値を下げて便通まで良くする、魔法の健康野菜、菊芋。

 
 一つの野菜だけ(金カブ)をクローズアップして褒めちぎろうと思ってたら、後から後から書かずにはいられない野菜たちの脳内主張。


 12月を過ぎて連日霜が降りはじめた畑には、霜にグッと引きしめられた冬野菜たちが今や遅しとこの口に入ろうと待ち構えている。ああ、乾燥中の大豆もそろそろ、丸々と乾きはじめてるだろうなあ。いったいお前ら、これからどんな主張おっぱじめる気なのよ、まったく。

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 まずは自分たちで。そしてお裾分けを縁のある方たちへ。たぶん、自然農のある暮らしって、そういうスタンスでいいんだと思う。 だって、うまいんだもん。
 
posted by 学 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 食の喜び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月28日

どんな出会いが

神無月九日 晴れのち曇り 

 雑草屋として、本人たちも忘れかけたような頃に、ぽつり、ぽつりと、自然農を体験したいという方たちが我が家を訪れる。農作業の手伝いを日長たっぷりしてもらい、夕食を囲み、団欒し、また朝から自然農の田畑へ。 思い思いに、草に囲まれた農園での一日を過ごし、自然農を縁とした一期一会を楽しんで、また日常へ戻られていく。

 LONOF(Local Oppotunity on Natural Organic Farm、ロノフと呼んでください)は、WWOOFに敬意を表して一部スタイルをお借りした、雑草屋が展開する自然農体験宿泊の取り組みだ。数年前から、誰にも知られず、ひっそりと始めていた試みではあるものの、これまでに計八名、複数回こられた方も合わせると、延べ十名のLONOFer(ロノフ体験者、通称ロノファー)がおみえになり、自然農の農作業と、我が家での滞在を過ごされた。

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 今年の夏の終わりのころ、珍しく立て続けに二名のLONOFerが来訪した。それぞれの滞在に、我々夫婦もともに刺激をいただき、長女も次女も可愛がってもらい、ささやかに賑やかな日常が我が家に訪れた。滞在中の楽しいあれやこれやも綴るのも良いのだが、それよりも、お帰りの際に記していただくノートのメッセージを引用するほうが、様子をお伝えするのに最適かもしれない。

 自然農だけに限らず、【話す聴くWS】【食事】【夫婦がお互いを大切に思い合うということ】など、たくさんの生きるヒントをいただきました。まずは自分が自然体に。そしてその波動がゆっくりと広がっていくように。自然農に出あえ、たずさわれていることと味わいながら、ゆっくりと生きていきたいと思えました。(ノートより一部抜粋)

 それにしても、ああやって一緒に畑仕事して、ごはん食べてお話して、日々の暮らしの中に人を迎えられるっていいですね。いつか私もやりたいな〜。おいしいご飯とお酒とおしゃべりと畑仕事とでおもてなし、本当にありがとうございました。(ノートより一部抜粋)


 こちらこそ、ありがとうございました。さて次はどんな出会いが待っているのやら。わくわく。



※LONOFについてはこちらから ⇒ LONOF(ロノフ)大募集!のページ


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 そんな今日、珍しく日帰りのLONOFerさんが来園された。ワークショップへの問い合わせが縁で、LONOFに興味をもって来てくださった方。作業しながらの話は尽きず、あっという間に夕方を迎えての帰宅の折。イタリアンのお仕事をされていたとのことで、帰り際に、さりげなく、かつ衝撃的に、ゴルゴンゾーラとリンゴの手作り(!)ケーキをいただいてしまいました。 

 偶然、先日姉からもらっていたボジョレー・ヌーボーに合わせたら、とてつもないマリアージュ♪ Mさん本当にありがとう!!

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 さて次は、どんな出会い(笑)が待っているのやら。わくわくわく。

  
LONOFについてはこちらから ⇒ lonof_ban.jpg




posted by 学 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 新しき出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

家族

神無月六日 晴れ
 
 夫婦と家族は違う。明確にそう思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 先日、小生の両親が、孫の顔を見に我が家を訪れた。孫を喜び、あやし、外食し、そしてまた実家に帰っていった。TVもない我が家での時間は両親にとってはどこかしら手持ち無沙汰であり、退屈であったようだが、孫と過ごしたからそれだけで満足はしたようで、また年始に会う雰囲気を共有して、するりと帰っていった。
 
 息子の自然農の畑にはさほど興味もわかず、娯楽はほとんどないが絵本だけはアホみたいに並んでいるリビングの子供本棚にも目も向けず、なんとなく過ごし、それでいいのだ。

 おそらく両親たちは私たち夫婦の選ぶ暮らしに対して、幾ばくかの(きっと大いに)違和感を感じているだろう。我々も、愛情の表現として常に「何か買ってあげる」と消費に向かう両親の好意などに、幾ばくかの違和感を感じ、しかしありがたく受け取っている。そこには、違和感もあり、それと同時に、理屈を超えた共有感が確実に存在している。

 きっとまた年始に、子供を連れて実家に帰省し、同じような違和感と共有感を楽しんで過ごし、そうして家族の思い出が積み重なっていくのだろう。そして同じことが、我が子たちと私たちの間にも、きっと繰り返されていくのだろうと思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 かつて、共同体としての継続、繁栄を目的に、家と家のつながりを最優先に交わされてきた夫婦であり家族という時代があった。その頃、社会では、おそらくその二つは重なり、同類の概念で育まれてきたはずだ。

 現代、そしてこの国で、恋愛を含む、個人間の契約という性格がほぼ大半をしめる結婚という結びつきにおいて、夫婦と家族が同じ括りにあるとは思わない。
 夫婦とは、出会いがあり選択があり葛藤があった末の、「一緒に暮らす」という合意を経た共同生活者である。一方、夫婦以外の家族、つまり父であり母であり兄弟であり子であるいわゆる血縁者とは、合意なしに強制的に(ある一定の期間を)「一緒に暮らす」ことを余儀なくされた共同生活者なのである。

 その意味では夫婦とは、曲がりなりにも、趣味や性格や価値観などで、あるレベルの共有が前提であるため、かつ自身の選択も背景にあるので、「一緒に暮らす」ことは意思と責任が伴い、多少のすれ違いや違和感があったとしても乗り越えていける理論的な根拠が存在する。

 しかし夫婦以外の家族はそうではない。そもそもが個性としてそれぞれ別個である個人個人が、たまたま血が繋がっているというだけで「一緒に暮らす」ことを社会的に強制されているに過ぎない。その共同生活には、価値観の共有や性格の一致などの、一般的に心地よいとされる人間関係においての前提条件が、実は存在していない。そして、このことを指摘することは、なにかしらのタブーのような雰囲気があり、そこまで取り上げられることは寡聞にして多くない。
 
 それでも、家族は家族である。そして、だからこそ、家族なのである。

 
 それは、「愛」だから、ではない。愛ももちろんあるだろうが、今ここで、そのことについては触れるつもりはない。
 当たり前ではあるが、家族だからといって、価値観も、性格も、趣味嗜好も、決して同じなわけではない。それどころか、「どうしてこの親から自分が?」「父親のあんなところはどうしても我慢できない」「兄弟でどうしてこんなにも性格が違うのか」など、家族間での違和感を感じることのほうが、共有感よりも多いのではないだろうか。

 それでも、この両親に生を受け、育てられ、ともに暮らし、そして子を授かり、育て、暮らしていく。そこに、理由はない。その理由は、家族だから。


 その「家族だから」という言葉に、理屈や説明や理解を吹き飛ばすような力強さがある。

 一人一人にとって、家族は全く違う意味をもって存在している。大好きで、仲良しで、性格も似ていて、一緒にいて何の苦痛もない家族もあるだろう。離れていても、思えば懐かしく愛おしく感じ、時々声も聞きたくなるような関係もあるだろう。一緒に暮らしてはいるが、顔を合わせれば文句を言ってしまったり、無言ですれ違い、歯車が合わないような家族もあるだろう。性格が合わないし、会えば不平不満を言ってしまうが、なんとなく助け合っている関係。1年に何度も電話もしないのに、正月は必ず実家で過ごす繋がり方。

 そのそれぞれの家族のあり方に、実は、価値の優劣はない。なぜなら、先に述べたように、夫婦間とは異なり、血縁関係の家族とは、社会として有無を言わさずに自分の選択なしで「強制」された共同生活者であるという性格があるからだ。

 家族と仲良しなことに明確な理由もなければ、仲が悪いことにも明確な理由はおそらく存在しない。それは、たまたまであり、運であり、あるいは努力もあり、愛でもある。家族関係を良好に継続にすることは、個人で選択できるが、そもそもの個性の差異については、選択できるものではないからだ。

 だからこそ、私たちは家族関係に悩み、憂い、喜び、安堵する。それはその人にとって本当に大切なテーマなのだけど、実は、思い切って宣言してしまえば、家族なんて、ただの血が繋がってるだけの他人だと言ってもいいのだ。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 つい今年の夏まで、自分はなぜ、あの家族の中で育ったにもかかわらずここまで趣味嗜好行動選択の異なる個性が生まれ育ったのだろうかと、どう考えてもわからなかった。それがこの夏、何がきっかけだったか詳細は忘れたが、自分という個性がこの家族だったからこそ確立したのだという確信にたどりつくという大転換が起きた。

 親友とのたわいもない(いや、結構ディープなトークかな)対話の中で、母親の「ありのままスキル」が異常に高いことに気がついたことがあった。教育や子育てに対して何かしらの哲学や理念がきっと深くはあるわけではない母であったが、彼女はおそらくありのままで私に接していた。自分がしたいことはするし、合わないことはしない、世間に流されもするし、不平不満も言う。美食も楽しみ、教育ママにもなり、夫に従いもし、口げんかもする。当たり前のような気もするのだが、そこで自分を抑えて理想の母親らしく振舞おうとしたり、夫の顔色を伺いすぎたり、子供の機嫌をとったり、という母の姿を目にした記憶がない。自分がきっと母から受け取ったバトンは、その「ありのままスキル」なのだった。一般企業を退職し、自然農を隣に置いた暮らしをし、世間一般の価値観にそれほど気を置かずに、そのお陰で今の多少でも幸せな自分が彩られているのだとしたら、それは、母がいたからこその、母がありのままで自分を育ててくれたからこその、私なのである。価値観や趣味嗜好に、断崖のような壁があったとしても。つい最近まで、公務員就職の夢を息子に抱いていた母だったとしても。

 それまで母と自分を個性の異なる理解しがたい血縁者としていたが、以来、この母にして我あり、という奇妙な連帯感も(勝手に)生まれている。そして同時に、以前とほとんど変わることなく、価値観の違いにモヤモヤしながらの、親子関係(家族関係)が続いていくのである。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 あらためて話すほどのこともない気もするし、しかしよくよく考えてみれば無限に話すこともあるような気もしてくる、「家族」についての思い。

 そんな「家族」をテーマにして、12月の「話す・聴く・気づきのワークショップ」を過ごしてみます。誰にでも当てはまるテーマだからこそ、あらためて話して、聴いてみたい。そんな方、お待ちしています。

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photo image taken by ikki


第21回 話す・聴く・気づきのワークショップ
=2014年12月20日(土) 開催=

 今回のテーマは【家族 (親子・夫婦・一番近い他人)】です。
 参加者募集しております。



posted by 学 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 故郷の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月26日

晩秋アンダー雨

神無月四日 雨

 旧暦の神無月。前の月周りが閏月(閏月については過去のBlog記事「うるうづき」参照)であったせいか、例年よりも神無月が遅くやってきて、どこかしらのんびりとした秋の歩みを感じていた。さて月が明けて四日。数日前のポカリとした陽気に油断していたら、いよいよ季節を一歩も二歩も進めるかのような、冷たい雨が訪れた。

 晩秋の雨はやっかいだ。米に、豆に、刈り進めて天日で干して脱穀にどんどん移りたい作業を、そうはさせじと足止めさせる。かろうじて、雀の攻撃を恐れて例年よりも早く刈り終えたかった稲は、今日の雨の予報に肝を冷やして、前日に車のライトを利用しながら夕方遅くまでかかって、すべて刈り終えることができた。その分後まわしになって畑に佇んでいる大豆たちは、おそらくこの雨の過ぎたあとの空っ風に煽られて、鞘を勢いよく弾けさせて畑に豆を飛ばし落とすことになるだろう。先に刈って干し始めている枝つきの大豆たちも、一旦はブルーシートを被せて、雨を避けて一休みといったところである。
 
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 その一方で見方を変えれば、雨ならば、と重い腰を上げて別の作業に取り掛かるチャンスにもなる。雨の強まらないうちに畑で掘りあげた里芋や生姜を、雨脚の強まった庭のテラスの軒下に腰をかけて井戸水で洗っていく。晴れるとついつい畑での作業を探してしまう自分にとっては(そして出荷をお待ちいただいているお客様にとっても)、恵みの雨と言えなくもないのだ。 

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 このところの季節の追い込みですっかり冬に近づいた畑だったが、冷たい雨は、さらに畑の色を変えていくだろう。朝の冷気と重なって雨に濡れる草々たちの、その色は実に淡いものであるが、しかし意味合いの濃い、今年のひと巡りを閉じようとするメッセージが込められているような、そんな色であるような気がして、ついついカメラを向けてしまう。

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 晩秋の冷気にあたった未成熟のトマトが、いったいどうやってその命を閉じていくのか。そんな、現代社会ではまるで取り沙汰されることもないだろう出来事を、トマト好きの人間のうちいったいどれほどの人が見たことがあるんだろう。自然農の畑の中で雨に打たれながら枯れゆこうとしているライトグリーンのトマトの実をながめ、ふとそんなことを考えて、その考えもすぐにどこかへ去り、また庭の芋洗いの作業に戻った、雨の下の晩秋の一日。

 
 
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2014年11月23日

アート爆発

神無月二日 晴れ

 秋はスポーツとはいえ、つくばマラソンランナーを、娘とヤギと共に筑波大学で見物してそのまま畑へ。娘はマラソンに数ミリほど感化されて、この日はよく体を動かし、田んぼの畦道を3周したり、畑の空き地を10往復走ったり、その程度の、スポーツの秋。


 秋は芸術も。芸術といってみても、毎日が畑と田んぼ。幸いにも自然農、見歩けば、自然の造形はあちらこちらに。

 田んぼには、稲刈り最晩期の水田の足元に、あちらこちらに鳥の足跡。籾を啄ばみ、はたまた虫を啄ばみ、湿り気の残る泥の上に、くっきりと文様を描いて残す。あまりにも原始的で、かつ即興的な、プリミティブアート。

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 刈った稲を干せば、そこには神々しさにも近い、稲穂と稲藁の組み成す造形美。逞しさ、猛々しさ、芳醇さ。ここに極まれり。

 
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 畑では、大豆を収穫しては、いそいそと干し場に並べていく。山のように、ピラミッドのように、積み重なりのフォルムが可愛らしく。

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 自然のアートに負けず、娘もひと作品を畑に添える。ペットボトルを親子で工作した風車に、青空の下でマジックペインティングを施す。夕刻、大豆の干し場に隣接したひと隅に、大豆を狙うカラスを追い払うに迫力十分の、極彩色の風車が飾られたのであった。感性を、なかなかに爆発させて。

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 あまりにも出来がよく、裏からも一枚。

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 こうして自然農の秋も満喫するのである。材料費ほぼゼロ、交通費ゼロ、観光費ゼロ。娘よ、すまん!



 
posted by 学 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月12日

真ん中

閏長月廿日 曇り

 自然農ライフ。

 いったいなんのことやら。種を蒔き、草を刈り、収穫して、お裾分けする。
 時に人を招き、体を動かし、話し、思う。起きて、食って、歩いて、仕事して、愛して、呑んで、寝る。
 それだけのことだ。いや、それだけのことか?

 この日々の真ん中には何があるのか。

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 今月、10月いっぱい販売に明け暮れた枝豆の集中月間が過ぎ、気がつけば稲刈りも、来春の作付けも、思うようにままならない。じゃがいもや枝豆を喜んでいただけた方々に、得難い感謝を覚え、もっともっと自然農の「美味しさ」を届けてみたいと望む自分。畑を見れば、里芋、生姜、菊芋、アピオス、小豆、旬の味覚が今や遅しと収穫、販売を待ち望んでいるように映る。

 自然農の晩秋は短い。11月は文字通りあっという間に進み、気が付けば、ソラマメもエンドウマメも麦も、種蒔きできる時期が終わりへと差し掛かろうとしている。枝豆の販売を機に、月に数度の定期的な直売ができるようなご縁に恵まれた。作物は畑にあるので、随時収穫していけば定期的な直売も継続できる。しかし。


 しかし、直売を11月も継続することでお客さんへの信頼度を深めようと提案してくれる妻に対して、小生は、畑を優先することを選んだ。今の作業濃度を考えれば、収穫と種蒔きを同時に進めることはできない。定期的な直売を継続するための収穫作業を進めれば、播種作業に手が回らない。この時期の播種を逃せば、来春の販売作物の収量が大きく損なわれる。それは、百姓にとっては、本末転倒に他ならない。さらに、そこに稲刈りのタイムリミットも重なってきている。かろうじて、里芋や生姜など、畑で出荷に備えている作物たちは、まだ霜の降りていない土の中で待ってくれている。播種期のハイシーズンが終わりを迎える11月下旬から収穫したとしても、それから直売できるのだ。

 だから、11月は直売を休んで、種まきに明け暮れたい。



 ともすれば、いったい野菜なんか売って何の意味があるのだろうか、なんて考えないこともない。買ってくれる人からすれば、自然農だって有機農だって慣行農(普通栽培)だって大した違いはないかもしれない。そうだとすれば、もっと効率よくたくさん育ててたくさん売って、それで収益を上げることだって意味があるのかもしれない。

 でもやっぱり、嫌なんだよね。

 自分にとっては、無肥料で、無農薬で、不耕起で、手作業で、収穫のためだけの農業ではない、自然農でないと、意味がない。そして、そのエゴを、商品として押し付けていることにもなる。

 それでいいのか?と自問しながら。
 それでいいだろ?と自答しながら。

 田んぼには、稲刈りを待つ稲が。
 畑には、収穫を待つ里芋が、カブが、大豆が。

 そして己の真ん中には、自然農の日々を楽しむ自分が。
 
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 そんな毎日の自然農ライフです。




 さりとて、いつでもお届けする準備はできている!
 それはそれなのである(笑)。
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秋冬だより【雑草屋本舗】

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2014年10月31日

かれん

閏長月七日 晴れ

 霜はまだ降りてない、ちょっと長めの秋。ともあれ、季節は晩秋、節句は霜降。

 ブリンブリンの枝豆たちが、モリモリに茂る小豆の莢が、朝晩の冷たい露にあたって、それぞれに、とりどりに、枯れ色に染まっていく。

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 枯れん、枯れん、可憐。


 完熟の枝豆は、野菜的な豆の旨みから、穀物的な豆の旨みへ。ぷりぷりから、ほくほくへ。市販の枝豆では決して味わえない、この時期だけの、作り手ならではの、お楽しみ。この時期のスペシャルな楽しみを、週末のつくいちでおすそ分け。可憐な完熟枝豆を、ぶち、ぶち、ぶち。夜が更ける。

 どうか、小雨の降りませんように。


第五十三候: 霜降次候
【霎時施(こさめときどきふる)】
=小雨がしとしと降る=
 (新暦10月28日頃〜11月1日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2014年10月11日

むしりむしり

長月十八日 曇り時々晴れ 

 つくし農園の集合日を日中過ごし、くたびれた体を休める暇なく、畳に腰を下ろす。
 夕食代わりの軽食を傍らにおいて、あとはひたすら、枝豆をむしるむしるむしる、むしるむしる。

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 ふと、昼に農園のプレーヤーさんと畑で交わした雑談を思い出した。

 「それにしても自然農の枝豆は旨いですよねえ。」
 「これで1年分稼いじゃって左団扇で暮らせないですかねえ。」
 「とりあえず枝豆だけで百万くらい稼いでみようとしたらどれくらい・・・・」
 「ざっと計算しても、1トンくらい(笑)!」
 「1トンかあ・・・どうすっかなあ。」
 「いやいや、さすがに1トンは無理でしょう!」

 今夜むしむしむしむし、むしりとった枝豆、およそ3kgほど。
 これの、約333倍。
 1年が過ぎる。。。
  
 自然農枝豆長者は夢の夢だねえ(笑)。


posted by 学 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月29日

恋人の味

長月六日 晴れ

 自然農の野菜はどんな味なんですか?

 雑草屋として自然農の野菜を少ないながらも人の手に届けるようになってから、幾度となくこの質問に答えてきた。野菜をお渡しする前に、「実際に食べてみてください!」とは以前はなかなか言えず(今では図々しく言えるようになってきた)、コミュニケーション能力を最大限に高めてどうにか自分の伝えられる範囲で対応してみるが、なかなかどうして、今でも、すんなりとは上手くいかない。


 数年前の出来事。とある連休に、前職時代の友人が友達二人で農園に遊びに来てくれたことがあった。10年来の付き合いの、フランクな会話を楽しみ会える友との酒の肴といえば、楽しい会話のキャッチボールであり、当然夜更けまで語り尽くした。翌朝、二日酔いの頭をたたき起こして台所に立ち、自家製米と手作り味噌汁と他一品、適度に自然農の恵みを混ぜ込んだ朝餉を並べることができた。
 二人とも、お世辞交じりにも旨いと言ってくれた会話の中で、「今までの中で、一番これはうまいなあと、リピーターがついているような自然農の野菜って何ですか」と尋ねられた。しばし思い起こし、「枝豆かもなあ」と答えてみた。色々と記憶をたどってみると人それぞれにお好みの野菜はあるようにも思えるが、しかしやはり一番印象が鮮やかなのは、やはり枝豆なのであった。

 お二人の出立が近づいていたので朝餉の時間はそれほどのんびりとは取れなかったのだが、ふといただいた興味深い問いかけにしばし時を忘れ、食事中にも関わらず思わず箸を置いて考えをめぐらせた。そのときの雑然とした思いは、数年たって確信に近づき、枝豆の季節が近づくたびに、このときの会話を思い出す。

 自然農の野菜はどんな味か、そのときの会話でめぐらせた思いが、きっと、その答えの鍵になっているに違いない。
 

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 なぜ枝豆がリピート率を誇るのか。

 まずここで、枝豆を食べるシーンを考えてみたい。ビールのおつまみにせよ、夕食の一品にせよ、他の商品と比較してみても、枝豆を口にするシーンにおいて、人々は、枝豆そのものの味わいを楽しみにして食べることが多い。その結果、枝豆の味に対して私たちは、他の野菜に比べてその枝豆自体の微細なさまざまな食味を、無意識的に記憶しているに違いない。その記憶はきっと、無意識ながらも明確に舌に残り、枝豆を食べるシーン折々ごとに、鮮やかに蓄積されていく。そのくっきりとした「味の記憶」が残る枝豆であるが故に、自然農の枝豆の衝撃的な旨み(甘み、コク、香り、膨らみ)がまざまざと記憶され、「自然農の枝豆は美味い」という感想が得られやすいのではないだろうか。

 一方で、小松菜やジャガイモなど他の自然農野菜が、小生が感じるほどにはその旨みに比例せず、枝豆ほど感動を呼ばないのにも、そのあたりに理由があるのではないかと思われる。小松菜やジャガイモなどの日常野菜は、主に、ありふれた日用食材として「加工されて」食されることが多く、枝豆とは違い、素材そのものの味わいを楽しむという機会が実はほとんどない。言い換えれば、それらの野菜は、もともとの食味の記憶を明確に刻印するチャンスが、枝豆にくらべて圧倒的に少ない。加工され、味付けされ、料理の一素材として調理されるため、野菜そもそもの味の記憶があいまいになっているのだ。例えば小松菜はおひたしとして、鰹節や醤油の味に主役を奪われ、例えばジャガイモは、カレーや肉じゃがなど、他の調味料や具(カレールーや牛肉など)に、美味しさの記憶を明け渡してしまっている。カレーライスで、ジャガイモの美味しさを記憶する人は、それほど多くないだろう。素材感を楽しんでいるような気がするじゃがバターであっても、実はバターと醤油の旨みあってのじゃがバターであることも少なくない。

 つまりは、特別な機会を設けて「食べ比べ」でもしない限り、一般的な野菜は、「栽培方法の差異」は味の違いがライブ感として認識されず(そもそも記憶があいまいなため)、どちらかと言えばなんとなく甘い、であるとか、なんとなく香りが強い気がする、程度の食味の違いでしか、反応されにくくなっているのではないかと思えるのだ。(もちろん世の中に、「旨い」と宣伝されるプレミアムな野菜が存在することは否定しません。)

 若干蛇足にはなるが、その点子供(とりわけ未就学の幼児)はまだまだライブに生きている。つくいちなどの対面販売の機会で試食してもらうと、まず真っ先に明瞭に反応するのは子供たちだ。例えばグリーンピース、例えば人参、家では絶対に食べられないと母親が懸念しながら興味本位で試食した子供が、「美味しい〜♪」と頬を緩めてニッコリして、母親が驚くという光景を、何度も目にしたことがある。いわんや枝豆をや。目つきが変わって何度も試食をほしがり、「これ以上はお家で食べてね♪」と応える小生に、母親が財布の紐を緩めるというやり取りが、幾度となく繰り返されてきた。



 では自然農の野菜は美味しいのか否か。

 実は私にとっては、本当に美味しいかどうか、という質問はあまり意味をなさない。上に書いたように子供の反応を取り上げて、「やっぱり自然農の農作物は美味しい」と言うことだってできるが、それは本当はあまり意味がないのではないかと思っている。

 本来「味のおいしさ」とは、体が旨いと感じる絶対的な旨さと、頭で判断して美味しいと感じる知覚的な美味しさの2種類に分けられる。前述のように子供が反応するおいしさは、おそらく絶対的な旨さである。それに対して我々大人の多くは、頭で考えて感じる知覚的な味覚によって、随分と偏って美味しさを判断しているような気がしてならない。その、頭で考えて判断するための重要なキーワードは、情報、そしてイメージである。行列店は美味しい、いや隠れ家的な店が美味しい、取れたて新鮮が美味しい、初物は美味しい。その数多の情報とイメージによって既に食べる前に味はほとんど決定しており、また、誰と食べるか、というシチュエーションも掛け算されて、素材そのものの味云々よりも、つまり頭によって味の記憶が決定されることが多いのだ。

 声高に美味しさを宣伝する、自然農野菜や有機野菜、ほかにも様々に工夫をこらした特別栽培された農産物、それらが本当の意味で美味しいのかどうか。それは、実は誰にもわからない。人によっては、糖度が高いから、とか栄養価が高いから、とかアンケートを通して、とかで美味しさを評価することを優先順位に上げたりもするが、それはそれである。

 味の判断基準そのものが、情報やイメージが優先されやすい傾向があるのだとしたら、自然農の野菜を美味しいかどうか判断するのはある意味簡単だ。その人にとって、自然農(という栽培のプロセスや意義)に対するイメージが好意的であるなら、それは間違いなく美味しい。あるいはそれを栽培する人に対して、好感を持っているのであれば、それもまた美味しさを演出する。そしてその逆もまた、真である。

 自然農の野菜が美味しいかどうか。それは、実は美味しく食べる為に欠かせない「スパイス」によって決まる。その「スパイス」とは、結局はこの野菜がどのように育ったのかという「背景を知る」ことなのだ。さあ、自然農で育つ野菜たちの幸せさをイメージしよう。化学肥料、有機肥料によって太らされるのではなく、自分が育つだけの分を他の雑草たちと分け与えながら適度に生育した、控えめで優しいイメージ。農薬や土壌改良剤や耕運機によって、微生物や昆虫や動物が住むことを許されない土ではなく、根っこの隣や草葉の影に賑やかしく他の命が溢れる、豊穣で健やかなイメージ。そのイメージにプラスして、顔も知り、性格も見知ったヒゲ面のややこしい想いも、アクセントに加えてみる。

 そうした背景を知って味わう準備が整った上で、本来の自然農の野菜が持つ「味」が、舌に放たれる。その野菜が、その味が美味しくないわけがない。(そしてもちろんここでも、その上で「おいしくない」と判断されることがあるのも、十分承知しています。)


 さて、話を少し脱線してみる。人々が、グラビアアイドルや芸能人を愛でる時の「味わい方」と、隣にたたずむ現実の恋人を慈しむ時の「味わい方」では、明確に論じらることはあまりないが、その「味わい方」はまるで違う。その理由は、グラビアアイドルの場合は顔の造形やスタイルの良さを視覚情報でのみ愛でるのであり、もしくは芸能人や歌手であれば、その視覚情報に加えて歌唱力であったり演技であったりは加味されるものの、あくまでも伝えられる「情報」によって愛でて味わっている。それに対し一般的には芸能人ほど外見が整っているとはいえない場合が多い彼女や妻ではあるが、それらを愛する場合は生い立ちや性格や内面などの、いわゆる背景込み、そして存在そのものを愛で、愛して、味わっている。(もちろん異論は認めます。)それはまさに、自然農の野菜を食べるのと同様に、「背景を知る」からこその美味である。

 つまり、自然農の野菜を食べる楽しみには、恋人や妻を愛するのと同様の楽しみが隠されていると言ってもよい。そして実はこの脱線した話こそが、味の本質、美味しさの真髄につながっているのだ。

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 なぜ自然農の枝豆が美味しいのか、という話からだいぶ話がそれてしまった気がするが、いい加減まとめましょう。

 まず第一の理由は、その前提条件にある。枝豆を食べるという行為そのものに、野菜の本来の味を楽しもうという準備がされていること。「味わおう」という感覚が用意されているが故に届く、比較の美味。

 第二の理由は、雑草屋が自然農で育てた野菜を食べるという行為に、「背景を知って食べる」という、味のポテンシャルを引き上げる要因が隠されていること。背景を知るが故に広がる、恋人の美味。

 そして第三の理由は、その二つの条件が整った上で、満を持して舌に放たれる、本来の自然農の枝豆が持つ旨みそのものの実力。期待を超えて想像をはるかに上回る、衝撃の美味。


 その3つが必然的に満たされた、我らが自然農の枝豆が、美味しくないわけがない。一般的に枝豆の旨さとしてのキーワードとしての、香り、甘み、コク、があげられるが、その全てを、市販の枝豆(それは高級な枝豆やブランドだだちゃ豆なども含む)を衝撃的に上回る。味覚というものは個人個人によって違うし、大半は情報やイメージによって左右されるとわかった上で、それでも、この枝豆を手にして、口にしてくれた方たちが、「うまい!」と舌鼓を打ってくれることを信じて疑わない。

 そしてそれが「自然農」の魅力の一つになり、自然農に興味をもってくれるきっかけになってくれるのだとしたら、こんなにも嬉しいことはない。

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 個人的には、第二の理由、恋人の味こそが、自然農の作物たちが美味しく感じる秘訣なのだと、愛しい我が枝豆たちを味わうにつけ、感慨にひたっているのであります。

 ちょっとした、変態なのかもしれないけど。



 ※過去のBlogではこんなこともやってました >> 「おいしさ」





posted by 学 at 16:44| Comment(3) | TrackBack(0) | 食の喜び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする