注)記事の日付は太陰暦を用いております

2014年09月19日

筑波山脈?

葉月廿六日 曇り時々晴れ

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 穂紫蘇が実をつけ始める頃。雨が降り、日が差し、空は天高く。風は冷たく、蚊は肥大し、いよいよ秋本番へ。

 秋の野良仕事もピークに差し掛かり、毎日(時々休みながらも)フルで田畑で過ごし、夕方見渡す空が息を呑むほどに美しい。

 ある日は、西の雲の合間から放射状に差し広がる夕焼け。またある日は、見事に鱗(うろこ)状に描かれた鰯雲。そして先日の曇天の夕暮れ。畑の北東の宝篋山(ほうきょうざん)には、いつもは山の向こうには山陰などなく、背景には空が広がるだけなのだが。しかし、その日は見事なまでの黒雲と白雲のグラデーションにより、あるはずのない山脈が突如現れた。

 まるで長野か山梨の、アルプスの連峰の裾野にいるかのような不思議な感覚。浅い尾根から霧が被るように雲が流れ、その奥にはさらに険しい山が控えているかのような、そんな景色。まるで、筑波山脈。

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 ここつくばに来て、初めて目にしたこの風景。なんだか得したような、旅したような、そんな夕方。日々是好日。


第四十五候: 白露末候
【 玄鳥去(つばめさる)】
=つばめが南へ帰っていく=
 (新暦9月18日頃〜9月22日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2014年09月12日

五感すべてで

葉月十九日 雨のち晴れ

 立秋(8月7日ごろ)から秋分(9月23日ごろ)までの、ちょうど夏と秋が交差するこの時期。春から夏への、万力で締め上げるようなじわりじわりと暑さがにじり寄ってくる様と違い、実に清々しく、秋が押し寄せてくる。その様子を、まざまざと五感で感じられるのが、白露を迎えるこの時節である。

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 朝7時、しっとり明るくなった畑の中を歩くと、盛夏の頃には及ばないものの、足元の露が地下足袋がじっとりと沁みて、思わぬ足の冷たさに気づく。夏至を過ぎた7月の頃なら、朝5時前から田んぼに埋もれて田植えをしていれば、7時になるころにはもうギラギラの太陽が首を焼き始めていた。足もとの水田からはむんむんとした湿気が立ち込めて、あっという間に玉のような汗が額から噴きだす。それに比べてどうだろう、この朝露の冷たさは。このあきらかな肌感覚の違いに、季節の移ろいを生々しく感じさせられる。


 夏の盛りの梅雨明けの畑には、濃緑色の雑草が、この世の春とばかりに(夏ですが)光合成を満喫する。その色は、紫にも群青にも近いような、果てしなく濃い、緑色である。自然農の野菜の淡色の緑に比べて、その雑草たちの吸い込むような緑は、何年過ごしても息を呑むほどに深い。9月、朝露の畑から腰を上げてふと周りを見渡すと、畑のあちらこちらに、早くも種をつけ始めたマツヨイクサや萩の種が黄緑色から薄茶色に変わり始めている。深い緑の洪水は徐々に色を落とし、朝露が乾くたび、一日一日少しずつ、畑を秋の色に塗り替えていくようだ。視覚で味わう、秋の入り口である。

 
 草刈りの続きをすべく腰を落とすと、耳に届いてくるのは、コオロギの大合唱。あれほどに、大音響で世界を包み込んでいたセミのオーケストラはどこへやら、いまやツクツクホウシが申し訳程度に遠くの林から鳴くばかりである。時折雲間から届く強い陽射しに夏の名残を感じるものの、やはりセミの大音響がないとどこか物足りない。あの暑苦しさの記憶はセミと共に消えてしまったのだろうかと思うほどに、秋の虫の声は、涼しさを届けてくれるようだ。


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 畝の合間を草刈りしながら進んでいくと、鼻をかすめるのは夏に刈った草がしっとりと枯れていく腐葉土の匂いだ。真夏の草刈り作業は、とにもかくにも「草いきれ」に包まれていた。ムンと匂い立ち、息がむせるような瑞々しさと猛々しさの混ざったような臭気。自身の汗の匂いと絶妙にブレンドされて届くその香りは、まさしく生命力に溢れているようだった。今、草間から香るのは、夏に刈り倒れたのちに分解され始めつつある、優しくも力強い枯れ草の空気だ。しかしそれは晩秋の眠りゆくような静かな匂いではなく、これから秋が深まるにつれて熟成していく前の、どことなく若々しさを感じさせるような、青さを残している。それもまた、この時期にしか味わえない独特の、爽秋の匂いである。

 
 夏の炎天下に、早採りのキュウリをもいでかじったあの味は、まさしくオアシスの味だった。旨みというよりは、価値は水分にこそあり、自分の欲するものとキュウリが蓄えようとするものが一致し、ジューシーで弾くような瑞々しさに喉を潤していた。そのころのキュウリと今のキュウリは、同じ種類だろうかと首を傾げるほどに味が変わったように感じる。水気がしまり、細胞の一つ一つに旨みが宿るような繊細な味わいを、おそらくキュウリ自身も準備し、こちら側もその味わいを感知する用意ができているのだろう。この夏から秋へ進む季節が届けてくれる、ほのかな、たしかな秋の味覚のひとつである。

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 全身で、五感全てで感じる、季節の移り変わり。雑草が生え、機械音にさえぎられず、肥料や農薬の匂いに邪魔されることのない、自然農だからこそ味わえる、この醍醐味。たとえ毎日ではなくとも、週に一度でも、月に一度でも、自然農の田畑に立って季節を過ごせばこそ、体に沁み込んで体感できるのだ。映画やテレビの3D作品や、ハイテクアグリビジネスや屋上菜園では決して手に入らない、なにかがある。原始と文化が同居し、かつ自身の感覚を開放することで手に入る、人間のもっともシンプルな「楽しみ」がここにある。


 さあ自然農、始めちゃおうよ。 
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 ※つくし農園 プレーヤー随時受付中♪



 そうそう、忘れちゃいけねえ。野良仕事を終えた後の最後の締めに訪れる、夏から秋への最大の変化を感じる瞬間を。

 真夏の最高の楽しみだった、キンキンに冷えた井戸水の水シャワーが、恐怖に変わり、ついに給湯器のスイッチを入れる。そしてお湯シャワーのホカホカに、心ゆくまで包まれるこのとき。全身全霊をもって、秋の始まりを実感するのだ。



第四十三候: 白露初候
【草露白(くさのつゆしろし)】
=草に降りた露が白く光る=
 (新暦9月8日頃〜9月12日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※


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2014年09月10日

月とジャガイモと兜

葉月十七日 曇り

 スーパームーンも十五夜も十六夜も、長女が19時就寝の我が家ではまだ季節の行事にはならない。それでもお月見の話はして、月に見立てた蒸しジャガイモを食べて過ごした今日この頃。娘としては、「花より団子、月よりジャガイモ」で満足だった様子。月の代わりに、イモを愛で、栗を眺め、豆を楽しむ。よしよし、すくすく育っておくんなまし。  

 
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 〜栗ひろい 月には捧げぬ 娘かな〜



 季節の行事といえば、この夏の誕生日に折り紙本をプレゼントしてもらった長女。なんとか自分で頑張って色々折っているものの、なぜかこの季節に、ご機嫌で「かぶと」を折ってかぶってきました。丁寧に、自分用と、ぬいぐるみ用も用意して。 まあいいや、すくすく育っておくんなまし。
  
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 〜名月に 兜を折りて 秋を待つ〜


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2014年09月09日

再会

葉月十六日 晴れ

 大学以来の友人が、Facebook経由で再会し、畑に遊びに来てくれた。都内でイタリアンを営むご夫婦の奥方。彼女も小生も、ともに大学時代の専攻からかけ離れた職種に現在身を置き、食育とか、スローフードとかに縁があって、そしてつくばにも縁があって、フットワーク軽く都内から訪問してくれた。

 夏の名残の強い陽射しと秋風の混ざる畑のガーデンテーブルに座り、子育てやら農業やら地球規模の問題(?)まで話を膨らませてあっという間の数時間。また再会しましょうと畑のジャガイモを手土産に帰っていった。

 数時間の二人の話の結論としては、結局人間はどんな状況になっても「生き抜く力」が重要だ、ということに。自然農であったり、イタリアンであったり、それはそれぞれに人生を費やしていますが、また何かどこかで、面白いことができるといいね。

 そんときは野菜使ってくれい。そしてとにかく、共に楽しく生き抜いていきましょう。

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 そのうち、こんなモリモリ野菜を届けられるかもしれませんので♪


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2014年09月02日

たわわ

葉月九日 晴れ

 雨続きの空がようやく太陽を取り戻し、久しぶりの気持ちよい晴れがつくばに訪れた。脳味噌に、腰なんて全然悪くない、と言い聞かせ、実際にぎっくり腰の怖さなどほぼ完全に克服し、ワクワクしながら田畑に出た。

 梅雨明け以降、じわりじわりと水位を下げてぐっと耐えていた田んぼ。腰を痛めたお盆のころには、すっかり表土からは水面が消え、稲自身と雑草、刈り草のカーペットが炎天下の蒸発を抑えてなんとかしっとりとした土を保っていた。そしてこの一週間断続的に降り注いだ残暑の雨。久しぶりにゆっくりと足を踏み入れた田んぼ。

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 なんとまあ、たわわに、たっぷりと、ほとほとに、雨水、沁み水が水田をきらめかせていた。

 たわわ、である。水は命の象徴だと、本能的に感じられるほどに、何かしらの豊かさのオーラのようなものが溢れていた。数週間前に腰痛まえに手を入れていた草刈りも嬉しいほどに効果を発揮していて、雑草は、モリモリと分蘖(ぶんげつ、ぶんけつ)する稲株の合間に、下草程度にちらほらと生える程度であった。そのちらほらの草を、小一時間程度で簡単に刈りながら田んぼを回る。腰をかがめながら、時折、稲株の下からの眺めを楽しむ。水面に水草をたゆたえ、空に稲の葉を茂らせる自然農の田んぼを覗いていると、ふと想いは、ボートに乗って探訪した中南米やアジアのジャングルクルーズへ。楽しい〜〜♪


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 思いを込めて取り組んだ作業が、自然の天候に左右されながらも地道に目に見える形で功を奏してくれるのも、たまには悪くない。腰の痛みに寝かされていた2週間のソワソワが、さーっと霧が晴れたように霧散していった今日の田んぼであった。


 たわわ〜たわわ〜たわわ〜♪


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 ※たんぼに水が張る様子を「たわわ」と表するのは辞書的には間違いですが、どうしてもこの言葉しか浮かばなかったので悪しからず、お許しください。

 

第四十一候: 処暑 末候
【禾乃登(こくものすなわちみのる)】
=稲が実り始める=
 (新暦9月2日頃〜9月6日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2014年08月30日

田畑の自然治癒力

葉月六日 曇り時々雨

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 ぎっくり腰が緩やかにほぐれていく間、田畑からしばらく離れてしまい、大豆も稲も里芋も一様に伸びやかに生育し、ついでに雑草の勢いも逞しく、いつものことながら自然の生命力に驚かされている。そんな中、今の畑は果たして、健やかな状態、健康体なのだろうかと、常日頃思い悩ませていることに、考えを巡らせてみた。

 果たして、自分の畑は、今健康だろうか?
 自然農の畑の理想的な姿とは、どんな姿だろうか?


 どんな畑であっても、一般的な農法であれば、機械で大規模に耕運して、土壌改良して、化学肥料や有機肥料を投入してしまえば、よーいドンで栽培していくことは可能だといえる。自然農では、(特に自分のこれまでのアプローチとしては、)そうしたよーいドンをあえて選ばないが故に、毎年の作物の育ち具合に一喜一憂しながら、果たしてこの畑で自然農で育てることは可能なのだろうか、と人並み(かどうかはわからないがそれなり)に悩んできた。

 その上で、現時点での自分の答えは、こうだ。

 「自然農の田畑は、自分の心の向け方次第で必ず、持続可能な田畑になっていく。」


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 耕さず、虫や草を敵とせず、農薬・肥料を必要とせず、命の営みに沿って作物を育てる自然農は、始めてすぐに劇的な変化を伴ったり、魔法のように誰でもうまくいく成功法がある訳ではない。あくまでも、「作物が育つ持続可能な状態」に向かう流れを、植物をはじめとする諸環境が自ら整え、その流れに乗りながら、人間が必要以上に手を加えすぎることなく、自然の恵みをいただくあり方である。いま向き合っている圃場(田畑)が、作物が育ちにくいという状態であるならば、それは流れが滞っているのか、手を加えすぎているのか、まだまだ人為を欲しているのか、いずれにせよ、「状態が整っていない」という症状を表現しているのだ。と考える。

 人の身体に例えてみると、人間が、悪習慣や諸要因の結果として現在「病気」を患っている状態に等しいと考えられるだろう。自然農を始める前の圃場が、農薬や化成肥料などを使用され大型機械で踏み固められてしまったために、本来整うべき自然の土壌環境が著しく破壊されてしまったとすれば、その田畑は言わば重病人のようだと言えるのかもしれない。 

 人間の病気に対して、現代医療が施す一般的な治療は、最新の検査や投薬、手術など、いわば対症療法である。同様に、「作物の育たない圃場」という病気に対して現代の一般的な農法では、大規模に耕運し、薬品で土壌改変させ、肥料と農薬を投入して、作物の育つ土壌を作り出そうとする。そのあり方は、何を選択するかというだけであり、「効果」があるという点からみれば、正しい選択だと言っていい。

 一方、「病気」に対しての自然療法的なアプローチはどうだろうか。身体の調子を崩して何かしらの症状が現れたら、食養を整え、呼吸や身体を正常にし、時に漢方などで治癒力を引き出してもらいながら、心健やかに過ごすことで病の状態から快方へ整えていくことを目指していく。そもそも身体は、命ある限り、自らを改善させていく力を内包している。それが、いわゆる「自然治癒力」である。

 自然農が本来有しているアプローチは、畑に生える草を診て、作物の育つ様を観て、植物たちや微生物たちが自ずから生命力溢れる環境へ向かう力に沿って手を加えていくというやり方である。時に、様子に応じて、生やす草を選別してあげたり、微生物が増えてくれるような有機物を加えてあげたりして、自然の持つ改善する力をサポートすることで、十分に作物が育つ状態(健康な田畑)に整えていけるのだと思う。それはさながら、「自然治癒力」を引き出して健やかな身体を維持していく、人体に対しての自然療法的なアプローチそのものだ。

 大切なのは、人体における「自然治癒力」を確信するように、田畑の「自然治癒力」を確信することである。そして、その治癒力と持続可能性を引き出せるような自分の手当て(関わり方)はいかにあるべきかを、問い続けることである。 その「問い」と「返し」は、蓄積もされうるし、経験を重ねて上書きされることもある。マニュアル、お手軽、効果的、それらのキーワードから開放されて、初心と積み重ねが同時に存在するしかないからこそ、自然農は面白いのだ。



 儲かるとか儲からないとか、ビジネス的においしいとかおいしくないとか、もっと戦略的にとか、面倒くさいとか、野菜が美味いとかうまくないとか、そういうの、関係ねーの。

 いつまでたっても答えがなく、でも最初から答えはあるようなところこそが、自然農の醍醐味なんだから!

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 さ、大豆の草刈りすっぺすっぺ。ジャガイモも、まだ間に合うのだけでも収穫すっぺー。


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2014年08月28日

自分で治す

葉月四日 曇り時々雨

 処暑を迎え、雨天も伴って、空気がぐっと冷えてきた。気温の変化とイベントごとが重なり、このところ、自分はぎっくり腰、長女はものもらい、妻は口内炎、次女は肌荒れ、総じて風邪気味という数日間を過ごしている。とはいえ、いわゆる「病院」にかかることもなく、「市販薬」に手を伸ばすこともなく、どうにかやり過ごして(いこうとして)いる。 

雑草屋の嫁日記にも詳細 


 近代医療を否定するのではなく、自分の身体で治す(治ってくれる)のが基本であるというスタンス。近代医療は、その自己治癒力の及ばない先に、手を差し伸べてくれる程度でいい。

 体調を崩すのは、自分の本来の「自然体」から外れているサイン。原因は自分のライフスタイルに他ならない。

 胃痛の胃酸は、なぜ出すぎているのか?
 頭痛の痛みは、なぜ生まれているのか?

 それを胃薬で抑えても、原因はなくならない。
 それを頭痛薬で抑えても、原因はなくならない。
 そして、病院のお医者さんも、原因を取り除くことはできない。

 お医者さんは、症状(痛みや腫瘍など)を軽減させたり除去したりすることはできるが、その疾病が起こったメカニズムそのものに手を出すことはできない。症状が発生するのは、あくまでも根本原因が自身の日常に存在し、生命体のメカニズムの作用の結果として、である。お医者さんはあくまでも「症状」を和らげる(もしくは取り除く)存在であり、「病気」を治すことはできない。「病気」を治すのは、自分の身体しかできないのだ。(例えばガンの腫瘍にしても、原因ではなく結果である。腫瘍を手術で取り除いたとしても、腫瘍の原因は手術で取り除くことはできない。)

 本来お医者さんとは、症状を和らげる為の知恵であり、技術であってくれればいいのだと思う。だからこそ先生であり、資格職(職人)なのだ。教育における生徒の成長は、教師や教育手法や教材が主役なのではなく、生徒自身なのはいうまでもない。それと同様、治療における主役は、医者や治療方法や薬ではなく、自分が主役なのだ。

 心も、身体も、自分次第でどうにでもなる。

 健康診断受けてないと不安、医者の診断がないと不安、薬飲まないと不安、少なくとも小生は、この3つの不安からは、完全に解き放たれているよ。医学の進歩や医療技術者の研究には大いに感謝を抱きながら。


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 そんな我が家の安心を支えてくれるアイテム。 オオバコ軟膏(庭の雑草)と梅肉エキス(庭の梅)。身体の外側、内側に、本来持ってる治癒力を引き出し、サポートしてくれる、ありがたい自然の恵み。



第四十候: 処暑 次候
【天地始粛(てんちはじめてさむし)】
=ようやく暑さが鎮まる=
 (新暦8月28日頃〜9月1日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2014年08月21日

魔女の一撃

文月廿七日 晴れ

 盆に帰省しての翌朝、身体に馴染んだ実家の旧子供部屋(現物置)に布団を敷いて、次女の布オムツをいつもどおり代えようと身体を屈めたその瞬間、欧米では魔女の一撃とも例えられる、あの雷のような衝撃が背中を貫いた。

 勇猛たる、血気盛んな、大人の男の精神を、いともたやすくへし折る、アイツ。

 ギックリ腰の襲来である。



 帰省先の実家で3日過ごし、どうにか車でつくばに戻って早や5日。あの一撃が訪れてから、畑と田んぼには足を伸ばせてはおりません。注文いただいていた自然農ジャガイモの宅配も掘れず送れずで一時停止状態。収穫時期真っ只中の、トマトにキュウリにオクラが実る畑には、どうにか妻に手入れしてもらう日々。大豆畑の草刈りも、いよいよ心配になってきた。


 そんな中、転んでもタダでは起きないリアル百姓。このギックリ腰をきっかけに、貪欲に新しい書籍や概念、キーワードに遭遇しています。田畑に通えない猛暑の日々を次なるエネルギーに代えるべく、動かせぬ身体と縦横無尽な心を総動員して、内的な自己の充実へ。

 その成果は、今すぐに実を結ぶものではない。でも身体を損ねた今だからこそ感知できたキーワードを最大限に手がかりにして、自分の中に生まれた新しい価値観を大事に育ててみたい。


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 庭のアサガオ。数日前に飼いヤギに茎を食べられてしまったのにもかかわらず、根性で花を咲かせる日々。生命の神秘には、ただただ驚かされる。そんな神秘と生命力が、自分の体内にも宿されているのだ。


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 魔女がくれた最高のプレゼントに感謝して。この雌伏の時、しかと噛み締めながら。

 

 追伸:週末には旧友たちとの宴会パーティーを楽しみにしつつ、週明けに準備万端に予定していたサマーキャンプは、忸怩たる思いで開催を断念することにする。楽しみに予定していた子供たち、本当に申し訳ありません。今後、腰に、いやいかなる痛みにも用意に屈しない男になって、またみんなに会える時を楽しみにしています。



posted by 学 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月11日

38年目の真実

文月十五日 曇り

 
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 先日、38歳になりました。小生が生まれた年(1976年)に、今の自分と同じ38歳だった方(ということは1938年生まれの方)であれば、今年76歳になられることになる。それはちょうど、今年生まれた次女が38歳になる2052年(!!)に、小生が76歳を迎えることと同じことを意味する。ということは今の倍生きてようやく、今の川口由一さん(我が心のお師匠です)よりも一つ歳を重ねていることになる。

 38歳。小生が生まれた年(1976年)に米作りを始めた方がいるとすれば、今年の夏は38回目の稲作になる。こちとらまだ、今年で12度目の稲作。

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 先日の集合日の午後、つくし農園のプレーヤーさんたちと「自然農」にまつわる意見交流会をひらき、おなじみ「話す・聴く・気づきのワークショップ」のスタイルをとりいれて数時間すごしてみた。その中で、これまでの自然農の畑の変遷を今年の視点から見たときにどう感じるか、と話す機会があった。今の畑に移った7年前、正直、自分はもっとセンスがあって2,3年あれば豊かな自然農の畑になって鼻高々に収穫し、周囲に胸を張っている姿をイメージしていた。意見交流会では、いやはや、うまくはいかなかったですねえと、苦笑いでこの7年を振り返っていた。
 そして今、である。ようやく、育ってくれる作物とまだまだ育ってくれない作物の感覚をつかみ始め、一方で手を焼いてなかなか豊穣な畑に育てられない区画もあり、あるいは知人友人との試行錯誤で自然農のスタイルの中で効果的に畑を豊かにしていく手法も実践していたりもする。しかしながらその過程はただただ楽しいばかりであり、当初のイメージ通りに進まず、7年かかってもまだまだこれからと思う自分に何の不満も反省もない。対外的に(いい子ぶって)反省しているようにみせようかという自分もいなくはないのだが、しかしやはり、現在の状態は自分にとってはあくまでも自然体の結果でしかなく、そう生きようと決めて暮らしている以上、この7年の田畑の歩み(ひいては自然農に出会ってからの12年)には、全く後悔がない。

 
 38年、良くここまで育ったもんだね。育ててくれた周囲の環境と、自分をここまで導いてくれた霊性(としか表現しにくい、感性とも、直感とも、偶然とも、運命とも、魂とも言い表せない自分自身の内的な存在)に、感謝して、受け入れることしかできない。

 前述の意見交流会で、自分を自然農の田畑に立つ作物だとしたら一体どんなイメージが沸くだろうか、という問いかけを、出席者に(もちろん自分にも)投げかけてみた。そのとき小生がイメージしたのは、今の畑で一番苦労している区画で育てた、タフに、しかし疲弊しながら、小動物や病気に時折やられながらも、小さいながらなんとか芋を太らせてくれた、リアルな我が畑のジャガイモの姿であった。ジャガイモになった小生は、そのジャガイモの自分を栽培してくれた妄想上の生産者(おそらく自分自身)に対して、「芋は小さいかもしんないけど、この畑では自分ができるのはこれが精一杯だし、この畑で育てるんだったらこれが限度だよ!これからもっともっといい畑になるんだろ? このままでもいいし、もっと工夫してもいいし、なんでもいいけど良い感じの畑にしていってくれよ。」と声を掛けていた。

 命は、その環境の中で、自ずから最大限の力を発揮しようと、あらかじめ創られている(設計されているとも言って良い)。それはもちろん、人間も同じである。どこであれ、誰であれ、生命体である人間を謳歌しようとするならば、その環境の中で、その人生の中で、その制限の中で、最大限に生ききるしかない。それはただ前向きポジティブな姿勢を意味するのではなく、ネガティブな時期も、失意の時期も、その中での最大限自分が向き合える範囲で生命力を保ち続けることだっていい。(その意味では堕落だって許されている。) 命ある限り、ただただその瞬間における、自分の自然体の伸びしろを楽しみ、生きてること自体を楽しめるかどうか、である。日常的な、現実的な、具体的な、成果や、目標や、困難や、しがらみは、いかにもな顔をして人生に圧し掛かってはくるが、自分の人生の奇跡的な運命力に比べてしまえば、何のことはない。それに負けるくらいなら、それに埋もれてしまうくらいなら、全てを投げ出して、自然体としての自分に向き合えばいい。

 その自然体の作り方のヒントが、自然農であったり、ワークショップであったり、その他もろもろの、自分が今、人生を掛けて関心を抱き、時間を費やしている諸々のテーマなのだ。今の田畑に立って7年、自然農に出会って12年、この世に生を受けて38年。人生という畑に育ち、自分というその制限の中で生命力を謳歌している今、ここらでまた一つ、新しい扉を自分でこじ開けようと、もがき始めてみることにする。

 キーワードは「自然体」。ただただ、周囲と自身の相互反応の海の中で、航海していこうと思っている。さあ楽しみになってきた! これが今の、38年目の、自分のありのままの真実。





 さて今日の畑。38歳3日目にして出会った、生まれて初めて知ったミニトマトの真実。


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 綺麗に実をつけたトマトの実は、赤から黄、黄から緑に、上下に見事なグラデーションをつけて実り進む。ここまで見事な自然の美しさに、この歳になって初めて出会い、そして湧き上がるような喜びに浸った。目にした瞬間、写真や伝聞では決して伝わらない、なにかとても尊い真実を、胸に刻むことができたような気持ちになった。この自然の美しさが圧倒的に伝える「美」。それが、常に我々の生きている隣に存在している。

 生き続ける限り、知らないことが無限に存在し、生きるたびに新たな発見に出会い、感じいり、楽しむ事ができる。知れば知るほど、知らないことが増え、その知らないことを知るが故に、また知れる喜びを手にすることができる。それもまた、この歳になってあらためて実感する、真実でもある。

 これらの真実を、知った風でもなく、誰に見せびらかすでもなく、誰かの為とかの善意でもなく、純粋に生命体の欲求として、同時に人間の好奇心として、追及してみたい。あくまでも、自然体に。ミニトマトは、誰かを喜ばせようとしてグラデーションをなしているわけではない。あくまでも、トマトのその自然体がもたらしたグラデーションを観た自分が、それを楽しんだだけである。

「自然体」は美しい。翻って人間にとっての「自然体」とは何か。その問いをこれからの暮らしの中に、常に忍ばせていけますように。それが自分にとっての「自然体」であれますように。


 38年後。あと38回田植えを経験した自分は、いったい何を想ってそこに立っているだろうか。そう想像するだけで、ワクワクが止まらないじゃないか!

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2014年08月01日

恵み

水無月六日 晴れ時々曇りのち雷雨

 天水のみを利用している、つくし農園の田んぼ。
 

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 梅雨が明けて、二日ほど前はこれくらい水が残っていたのが、この炎天続きでちょうど表面が乾いてきたなーと思っていた折の、今日の稲妻。そして雷雨。

 稲妻の多い年は豊作になると言われるのも頷ける、百姓にとってももちろん稲にとっても恵みの雨。


 ただこれだけのことなのだけど、自然に沿って生きてる感じがする。


第三十五候: 大暑 次候
【土潤溽暑(つちうるおいてむしあつし)】
=土がしめって蒸し暑くなる=
 (新暦7月29日頃〜8月3日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※



 午前中、草刈り中にハチに刺されたという一悶着は、また後ほど(笑)。

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