「ネットワーク」という言葉が嫌いだった。
他人と繋がることが自分を安心させるのは間違いない。友人と共に過ごす時間は代えがたい喜びでもある。かくいう自分も学生時代からサラリーマン時代にかけて、機会があれば人のネットワークを広げる方が良いという価値観を抱いていた。だけど、そんなに大事か?と言いたい自分がいる。
もう少し正確に書いてみるなら、「ネットワーク」が先に来る風潮に違和感を抱いている。植物の世界を見てみると、当然、ネットワークは重要だ。植物は発芽後と同時にあるいはそれより先に発根する。発根した根は毛細根と主根をぐんぐんと土の中(つまりは鉱物と有機物と水分と菌と植物の根の複雑系構造体)へ伸ばし、出会う。つまり、発根の先に待ち構えているのが、ザ・ネットワークとも言うべき、土壌ネットワークなのだ。植物は、自らの根が届かないネットワークを必要としない。身体のすぐ外にある環境と手をつなぎ、必要十分なやり取りを十全に執り行い、成長につなげていく。
地上部に目を向けよう。発芽して土の上に出た茎葉は、地上(つまりは光と風と空気と虫と動物と菌と植物の茎葉の複雑系空間)へ登場し、成長させていく。発芽の先に待ち構えているのは、開かれた空間でもあり、その一方で、どうしようもなくネットワークの世界なのだ。環境に翻弄され巻き込まれていくその姿はまさに、ネットワークの中でしか生きられないと観ることもできる。が、でありながら立ち上がってくるのは、植物そのものの遺伝子性(必然性)と、外部環境性(偶然性)の相互作用でしかない、という極めて両立的な事実だ。
つまりは、ネットワークとは、私たちの「生きる」そのものであり、作らずとも作られる、作らなくとも作られている、自然なふるまいの先にしか有効活用されない、土壌や空気と同義語ではないか。私たちが生きている身体、心、という根や茎葉が、外部環境(社会や人々)という土壌や空気に出会い、感知し、自身の成育に取り込み、肉体化していく。入れ物としての自分と、環境そのものであるネットワークの直接的、あるいは原始的相互作用。それが私そのものなのだ。
冒頭に、「ネットワークという言葉が嫌いだ」と書いたのは、当時28歳の私だった(下書きした日は2004年6月23日)。もしかしたらそれは、原始的な相互作用への希求を言語化できずに、嫌悪感として発露させていた違和感の表出だったのかもしれない。自分の身体のすぐ隣に出会っているネットワーク以上に触手を伸ばさせようとする風潮への、自分なりの反発だったのかもしれない。
ならばもう一度言い直そう。
私は「ネットワーク」そのものであり、ただのネットワークの出演者でもある。他者と繋がること、外部環境にどっぷり関わることでしか生きられない存在であると同時に、それ以上の意味はない。ネットワークとは、ただの、外側の「私」なのだから。じゃあ、嫌う必要もないし、追い求める必要もないんだね。
と、28歳の自分から、49歳の自分へのちょっとした、発酵の発見でもありました。面白かったよ俺!
↓↓写真はたぶん28歳の俺(笑)↓↓


